envisionの種

2026/03/29

風呂式 「なぜ銭湯か?- まちと人がゆるくつながる方法 – 」Vol.3(3回連載)

コラム

この連載は、銭湯を手がかりに、人と人、そしてまちとの関係を、いちアートディレクターの視点から考えるものです。
銭湯が好きでよく通っていますが、自分の住むまちでは、体感でも分かるほどの勢いで、その数が減り続けています。効率や正しさ、意味のあるつながりが求められる社会の中で、銭湯には、そうした価値観から少し距離を置いた時間が流れています。何かを成し遂げなくてもよく、誰かと深く関わらなくてもいい。ただ湯に浸かり、調子を整えて帰っていく。その「ゆるさ」に、惹かれています。誰でも行けて、誰でも受け入れてくれる。強いコミュニケーションではなく、同じ湯船に浸かることで生まれる、脆弱な連帯感。「みんな」ではないけれど、「ひとり」でもない。

そんな銭湯のあり方を起点に、カルチャーやデザイン、クリエイティブの思考を広げながら、人やまちにとって必要な「ゆるさ」や「余白」について考えていきます。銭湯の継承に、微力ながらも一助になれたらと思い、書きました。

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中井英之
Art Director

これまでメンズインナーやライフスタイルブランドのクリエイティブディレクションを経験。クライアントとユーザーの間で誠実なコミュニケーションを築く事がモットー。インパクトのあるビジュアルづくりが得意だが、アウトプットにとらわれず、常にオルタナティブな選択肢を探っている。

ここまでの振り返り

Vol.1では、銭湯を単なる入浴施設としてではなく、まちの中に残された「余白」のような場所として捉えてみた。そこには、何かの役に立つことや、効率よく時間を使うこととは少し違う時間が流れている。誰かと強く結びつかなくても、同じ空間に身を置くことができる。そうした場所が、いまの都市の中ではむしろ貴重になっているのではないか、ということを書いた。

Vol.2では、その感覚をもう少し広げて、銭湯をまちとの関係の中で見直してみた。銭湯は、ひとつの建物の中だけで完結するものではなく、そこへ向かう道や、周辺の店、まちの空気ごと含めて成り立っている。銭湯のある風景を見つめることは、まちの見え方そのものを変えることでもある。そう考えたとき、銭湯は過去の文化ではなく、これからのまちを考えるための手がかりにもなり得るのではないかと思えた。

そして今回書きたいのは、そうした銭湯のあり方を、ひとつの考え方として整理してみることだ。

風呂式とは

まちには、さまざまな場所がある。働く場所、買い物をする場所、食事をする場所。それぞれに目的があり、役割があり、効率よく設計されている。
けれど、人が心地よくいられる場所は、必ずしもそうした場所ばかりではない。何かを達成するためでもなく、誰かと会う約束があるわけでもない。ただそこに行き、少しだけ時間を過ごし、調子を整えて帰ってくる。そんな場所が、まちの中にはある。銭湯も、そのひとつだ。
銭湯には、さまざまな人がいる。毎日のように通う常連の人もいれば、たまたま近くを通って立ち寄る人もいる。誰かと会話をすることもあれば、まったく言葉を交わさない日もある。長く湯に浸かる人もいれば、さっと入って帰る人もいる。それでも、その場は自然に成立している。
そこには、人と人の関係をゆるやかに成立させる、ある種の「設計」があるように思う。私はこのあり方を、「風呂式」と呼んでみたいと思っている。

風呂式の作法

「風呂式」のあり方を、少し整理してみた。
この考え方を、「風呂式の作法(FUROSHIKI CODE)」として、8つのルールにまとめてみた。

銭湯は、こうしたルールを掲げているわけではない。けれど、理想的な銭湯では、こうした状態が自然と保たれているように思う。つまり銭湯は、人の関係をコントロールしているのではなく、関係が生まれてもいい環境を整えている場所なのだと思う。

1. ひらく – 誰でも受け入れる –
銭湯の入口には、特別な条件がない。常連でも、初めてでも、同じ暖簾をくぐる。入口がひらかれていることで、その場はまちとつながる。

2. 強制しない – 関わり方は自由 –
誰かと話してもいいし、話さなくてもいい。長くいてもいいし、すぐ帰ってもいい。それぞれの距離感で関われることが、この場所の心地よさをつくっている。

3. 評価しない – 優劣をつくらない –
上手な入り方も、正しい過ごし方もない。それぞれが、それぞれの時間を過ごしている。その自由さが、場の空気をやわらかくしている。

4. ゆるくつながる – 無理のない関係 –
名前を知らなくても、顔を見たことがある。そんな関係が、銭湯にはある。強く結びつかなくても、人は同じ空間を共有できる。

5. 余白を残す – 完成させない –
銭湯には特別なプログラムがない。何をするかは、それぞれに委ねられている。余白があることで、人の時間や関係が自然に生まれる。

6. 出入可能 – 離れても戻れる –
毎日来てもいいし、しばらく来なくてもいい。ふと思い出したときに、また戻ってこられる。銭湯は、そんな時間の流れを受け入れている。

7. 整える – 場を保つ –
銭湯は、自然に続いているように見える。けれど実際には、誰かが温度や空気を静かに整えている。その営みが、場の心地よさを支えている。

8. 続ける – 日常として続く –
銭湯はイベントではない。いつもの場所として、毎日そこにある。その積み重ねが、まちの文化になっていく。

そして、こうした銭湯のあり方は、まちづくりやクリエイティブにも重なる部分がある。

デザイン思想としての風呂式

何か新しい場所や企画をつくるとき、私たちはつい「目的」「成果」「プログラム」「コンテンツ」を用意しようとする。もちろんそれも大切だ。
けれど、文化や関係は、必ずしもそうした設計から生まれるわけではない。銭湯は、何か特別なコンテンツを提供しているわけではない。それでも人が来て、同じ空間を共有し、それぞれの時間を過ごして帰っていく。
もしかすると、これからのデザインに必要なのは、何かを強く結びつける仕組みではなく、関係が生まれてもいい余白を整えることなのかもしれない。

たとえば、プランAとプランBがあるとする。従来のデザインでは、どちらかを選び、もう一方を捨てることで方向を決めてきた。けれど、必ずしもAかBかを決める必要はないのではないか。
「AでありBでもある」状態。あるいは「Bを含むA」のような関係。どちらかを排除するのではなく、互いが重なり合う余白をつくること。こうした考え方自体は、これまでもさまざまな分野で語られてきたものだと思う。ただ、これからのデザインにおいては、それをより意識的に取り入れていく必要があるのではないだろうか。
これまでのデザインは、AとBを強く結びつけること、あるいはどちらかを選択する仕組みをつくることによって、関係を成立させてきた。それは明快で、即時的な効果を生みやすい。しかし同時に、その構造はAとBのあいだに対立や反発を生みやすく、持続的な関係を築くという点では脆さも抱えている。

いま社会の中で求められているのは、短期的な効果よりも、持続性や健やかな関係である。そのために必要なのは、強い結びつきではなく、「ゆるいつながり」なのかもしれない。
銭湯には、そうした関係が自然に存在している。そのあり方を手がかりに整理した考え方が、「風呂式」である。

銭湯好きのジレンマ

銭湯が好きな人には、ひとつのジレンマがある。
昔ながらの町銭湯の空気が好きな人にとって、近年の銭湯を支えるさまざまな取り組み――リノベーション、物販、SNSでの発信、サブカルチャーとの接続などは、銭湯を持続させるための試みとして、もちろん嬉しいものでもある。

けれど同時に、そこに少し寂しさを感じることもある。かつて町銭湯にあった、あの「日常の場所」としての空気が、少しずつ変わってきているようにも感じられるからだ。
それはただの懐古主義に過ぎない、と言われればそれまでかもしれない。けれど、銭湯が日常の場所ではなく、コンテンツとして消費されていくことへの小さな違和感もある。

銭湯を持続させることと、銭湯の日常性を守ること。そのあいだにあるジレンマを、風呂式という考え方で乗り越えることはできないだろうか。

銭湯から生まれ、まちへひらく

銭湯は、まちの中で少し曖昧な存在だ。商業施設のようでありながら、公共施設のようでもある。常連がいる場所でもありながら、誰でも入れる場所でもある。その曖昧さが、まちの中の居場所をつくっている。
銭湯のあり方を手がかりに整理したのが、「風呂式」という考え方である。それは銭湯の原理であると同時に、これからの社会の中で、関係や場を持続させていくためのひとつの方法でもある。
銭湯は、いまもなお減り続けている。けれど、その銭湯から抽出した「風呂式」という考え方を、銭湯の中だけに閉じず、まちへとひらいていくことができれば、銭湯という場所の価値や可能性を、違ったかたちで支えていくことができるのではないだろうか。

たとえば、銭湯を起点にまちを歩き直すこと。銭湯に向かうまでの道や、そこにある風景、人の営みを見つめ直し、地域資源としてあらためて読み替えていくこと。そうすることで、まちと人、そして銭湯とのあいだに新しい関係をつくり、その価値をリブランディングしながら、クリエイティブを通して伝えていくこと。
それは、銭湯をただ懐かしむことでも、消費されるコンテンツに変えることでもない。銭湯がもともと持っていた、自己回復や、ゆるいつながり、暮らしの余白といった価値を、別のかたちでひらき直し、これからのまちへ接続していくことだと思っている。

私がこれから試していきたいのも、そうした小さな実践である。銭湯を単体で見るのではなく、そこへ向かう道や、その周辺にある店や風景、人の流れまで含めて読み替え、人が歩き、寄り道し、気づき、また訪れたくなる体験へと変えていくこと。ネーミングやビジュアルをつくることだけでなく、導線を設計し、意味づけを行い、記録し、編集し、伝えていくところまで含めて、ひとつのクリエイティブとして考えてみたい。

銭湯から生まれた思想が、まちや文化の中で広がり、新しい体験や関係をつくっていく。そうした実践が、結果としてまた銭湯の価値を支え直していく。そんな循環をつくることができないだろうか。

この連載はいったんここで区切りとしたいと思う。けれど、風呂式はまだ整理されたばかりの考え方だ。本当に大切なのは、それを実際の場の中で試していくことなのだと思う。

まちやカルチャーと接続すること。銭湯から生まれた思想を、まちへひらいていくこと。そうした小さな実践を、これから少しずつ重ねていきたい。

この連載はいったん終わるが、風呂式の取り組みはここから始まる。銭湯のように、特別なイベントではなく、日常の営みとして続けていきたい。

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