envisionの種
2026/09/28
風呂式 其の二「銭湯からひらく ― まちとの関わり方を考える ―」Vol.1(3回連載)
コラム

前回の連載『風呂式 「なぜ銭湯か?- まちと人がゆるくつながる方法 – 」』(3回連載)では、「なぜ銭湯か?」という問いから、銭湯が持つゆるさや余白、人と人、そして人とまちとの関係について考えた。今回は、そこからもう一歩進んで、銭湯を入口に「まちとの関わり方」そのものを考えてみたい。
日常のなかでふらっと立ち寄れること。会話をしてもいいし、しなくてもいいこと。特定のコミュニティに属していなくても、同じ場所と時間を共有できること。銭湯には、誰かと強くつながることを求められないまま、地域の気配に触れられる瞬間がある。こうしたあり方には、これからの地域との関わり方を考えるヒントがあるのではないかと思う。
全3回を通して、まず「日常」、次に「所属と所在」という視点から銭湯について考え、最後は、よりゆるやかな地域との接点を「風呂式」としてどうつくることができるのか、少し具体的なところまで考えてみたい。第1回は、「銭湯と日常」について。映画「パターソン」を入口に、そもそも日常とは何か。そして、日常のなかにある銭湯とはどんな場所なのかを考える。
◼︎風呂式 其の一はこちら

中井英之
Art Director
メンズインナーやライフスタイルブランドのクリエイティブディレクションを経て、ブランド・地域・人のあいだに生まれる新しいコミュニケーションを探求。ビジュアル、コピー、体験設計を横断し、関係性を読み解きながら、銭湯を起点にまちの資源を捉え直す「風呂式」プロジェクトを推進している。よく歩き、よく浸かり、よく考える。
映画「パターソン」
2016年のアメリカ映画「パターソン」(監督:ジム・ジャームッシュ/主演:アダム・ドライバー)は、ニュージャージー州パターソンに住むバス運転手が主人公だ。彼は街と同じ名前を持ち、妻と暮らしながら、毎日バスを走らせている。そして、その日常の出来事から着想を得た詩をノートに書き続けている。
物語には、大きな事件や劇的な展開はほとんどない。決まった時間に起き、働き、家に帰る。夜には犬を連れて近所を散歩し、その道中にBARへ寄ってビールを一杯飲む。翌日もまた同じように一日が始まる。けれど、その繰り返しは決して同じではない。バスの車内で耳にする会話、街ですれ違う人、いつもの場所に起こる小さな変化。パターソンは、そうした日常の断片を拾いながら詩をつくっていく。
妻のローラは、白と黒を基調に家を飾ったり、新しいことを次々と始めたりする少し風変わりな人だ。パターソンとは対照的に、暮らしのなかへ自分から変化を持ち込んでいく。それでもパターソンは、その言動を否定することなく、静かに受け入れている。二人の暮らしには、派手さはないけれど、それぞれの違いをそのまま置いておけるような穏やかさがある。
この映画を見ていると、日常とは特別な出来事の反対側にあるものではないとあらためて気づく。いつもの道、いつもの店、いつもの時間。同じことを繰り返しているからこそ、その中にある微細な変化にも気づくことができる。パターソンは常にノートを片手に詩を考えているが、日常をありのままに描いたこの物語自体が、美しい詩のようで、私はこの物語が好きだ。
BARと銭湯
私がこの映画で好きなシーンのひとつに、BARでのシーンがある。パターソンは毎晩、犬の散歩の道中にBARへ寄り、カウンターに座って静かにビールを飲む。マスターと少し話すことはあっても、誰かと積極的に交流するわけではない。人や会話が行き交う公共の場にいながら、ひとりでいる。
完全な孤独ではない。ほかの客の声が聞こえ、マスターがいて、誰かが店に入ってくる気配もある。それでも、ひとりの時間は保たれている。家で一人になるのとも、誰かと待ち合わせて飲みに行くのとも少し違う。人の気配のなかにいながら、自分の内側へ戻っていけるような距離がある。
ひとりでいながら、ひとりになりすぎない。その距離感のなかで、その日あったことを思い返したり、詩のことを考えたりしながら、自分の状態を少しずつ取り戻しているようにも見える。
こういう場所って、ほかにもあるよな、とふと思う。
そうだ「銭湯」に似ている。
前回から、もう少し先へ
まちの銭湯は、長く公衆衛生の役割を担い、人々の生活を支えてきた。 ※1 一般家庭に風呂が普及した今も、その役割がなくなったわけではない。一方で、毎日の生活に不可欠な設備として銭湯へ通う人は、かつてに比べれば少なくなり、銭湯の数も大きく減っている。※2
それでも、自宅に風呂があるのに銭湯へ行く人がいる。大きな湯船につかりたいから。家とは違う場所で一息つきたいから。近所にあるから。理由は人それぞれで、はっきり言葉にしないまま通っている人もいるだろう。
これまで風呂式では、現在の銭湯が持つ価値を「ゆるい交流性」「ひらかれた公共性」「自己回復性」という3つの視点から捉えてきた。今回は、その価値の背景にある「日常」という感覚について、もう少し考えてみたい。銭湯は、なぜ生活の延長にありながら、少しだけ特別に感じるのだろう。
参考:
※1 厚生労働省 | 公衆浴場の確保のための特別措置に関する法律
※2 厚生労働省 | 公衆浴場業概要
日常とはなにか
では、そもそも日常とは何だろう。「日常」と聞くと、見慣れた風景や、いつもの場所、普段何気なく触れているものを思い浮かべる。出勤途中に見かける横断歩道。マンション前の並木道。いつも行くスーパー。郵便局。自分の部屋。机。洗面所の鏡に飛び散った歯磨き粉の汚れ。
目立つものではないけれど、毎日のなかで何度も目にし、触れ、通り過ぎているものには、確かに「日常」の感覚がある。
ただ、その日常性は、場所や物そのものに最初から備わっているものではない。
例えば、いつも行くスーパーが「LIFE」ではなく「サンディ」だったとしても、毎日のように通えば、やがてそこは「いつものスーパー」になる。引っ越したばかりの街も、最初は道の名前も店の場所もわからず、どこか借り物のように感じる。それでも同じ道を通り、同じ店で買い物をし、同じ交差点で信号を待つことを繰り返しているうちに、少しずつ身体が街を覚えていく。気づけば、わざわざ地図を見なくても歩ける「自分のまち」になっている。
逆に、住み慣れた場所にいても、仕事や生活のリズムが大きく変われば、いつもの街がどこか落ち着かなく感じることもある。同じ場所にいても、自分との関係が変われば、日常の手触りも変わる。
場所や物が日常なのではなく、それらと自分とのあいだに積み重なった反復が、日常をつくる。
この暮らしの中の反復を「日々の慣性」と呼んでみる。
起きる、食べる、移動する、働く、あるいは学ぶ、帰る、食べる、寝る。身体を伴う体験を繰り返すうちに、それは毎回意識しなくても続いていく流れになる。昨日から今日へ、今日から明日へと、その流れが自然につながっていく。その感覚が、自分にとっての「いつも」になっていく。
日常とは、特定の場所そのものではなく、人と場所、人と物、人と行為とのあいだに、反復によって生まれる関係なのだと思う。
銭湯は、日常になる
そう考えると、銭湯も最初から「日常」なのではない。初めて入る銭湯は、少し緊張する。入口の勝手がわからない。脱衣所の配置も、どんな湯船があるのかも知らない。まわりの人がみんな常連のように見えることもある。
でも、二度、三度と通えば、少しずつ勝手がわかってくる。いつもの靴箱。いつもの脱衣所。好きな湯船。よく見かける人。店の人との挨拶。一つひとつは小さなことだが、反復することで身体が覚えていく。初めは知らない場所だった銭湯に、自分なりの入り方や過ごし方ができていく。「銭湯に行く」という行為そのものが、自分の生活のなかに組み込まれていく。
つまり、銭湯は日常だから通うのではなく、通うことで日常になっていく。場所が日常をつくるのではなく、人が場所との関係を繰り返すことで、そこに日常が生まれる。
日常を少しだけ「ずらす」
一方で、銭湯は完全な日常でもない。
高い天井。広い浴槽。タイルに響く水の音。湯気の向こうにいる人の気配。大きな湯船に身体を沈めたときの、家の風呂とは違う開放感。そこには、普段の生活とつながっていながらも、自宅では得られない感覚がある。
服を脱ぎ、スマホや仕事道具をロッカーへ置き、身体を洗って湯につかる。さっきまで仕事をしていた自分も、帰宅途中の自分も、湯船のなかでは少し遠くなる。何かをしなければならない時間から、何もしなくていい時間へ、身体のモードが切り替わっていく。
とはいえ、旅行やテーマパークのように、日常から完全に切り離された場所でもない。仕事帰りに行ける。近所を歩く格好のままでも入れる。予約も、特別な準備もいらない。そして風呂から上がれば、またいつもの街へ戻っていく。少し火照った身体で歩く帰り道もまた、自分の日常の続きだ。
銭湯は、日常から逃げるための場所ではない。日常の途中で一度その流れから降り、少しだけ自分の時間に戻り、また日常へ戻っていく場所なのかもしれない。
日常から完全には離れないまま、少しだけ非日常へ足を踏み入れ、また日常へ戻る。いわば「半非日常」の状態だ。
銭湯は、非日常を提供する場所というより、日常を少しだけずらす場所なのかもしれない。そして、その小さな「ずれ」があるからこそ、自分の日常を少し離れたところから見直すことができる。映画「パターソン」で、主人公がBARでビールを飲みながら一日を反芻しているように。
日常のすぐ外側
日常と非日常を、きれいに二つに分ける必要はないのだと思う。その間には、どちらとも言い切れない時間や場所がある。
銭湯も、そんな場所の一つなのかもしれない。通ううちに生活の一部になる一方で、自宅の風呂とは違う時間がある。日常から完全に離れるわけではないが、いつもの流れから少しだけ距離を取ることができる。
そう考えると、銭湯は「日常のすぐ外側」にある、と言えるのかもしれない。ここでいう外側は、旅行のような非日常ではない。日常と切り離されるほど遠くはないけれど、いつもの流れをそのまま続ける場所でもない。
それでも、いったんそこへ入ることで、いつもの時間の使い方や、自分の状態が少し変わる。その小さな距離が、銭湯を生活の一部でありながら、少しだけ特別な場所にしているのではないか。

所属と所在
銭湯では、誰かと話さなくてもいい。それでも、同じ浴室にはほかの人がいて、同じ時間を過ごしている。誰かと積極的につながらなくても、完全に切り離されてもいない。
会話を交わさなくても、誰かが身体を洗う音がする。湯船の向こうに人がいる。帰り際に店の人と軽く挨拶をする。それだけでも、自分ひとりだけではない場所にいることはわかる。
この関係は、「コミュニティに所属する」という感覚とは少し違う。何かに参加する意思を表明しなくても、役割を引き受けなくても、ただそこにいることができる。
では、「所属すること」と「そこにいること」は、何が違うのだろう。
次回は、「所属」と「所在」の違いから、銭湯と地域との関係についてもう少し考えてみたい。