envisionの種

2025/12/25

循環と再生「京都の地蔵盆〜祈りと再生の間にある小さな循環」Vol.1(3回連載)

コラム

祈りのかたちを、まちの今に合わせてリデザインする

祈りは、過去を守るだけのものではない。いまの暮らしに合わせて、もう一度つくりなおすこと。京都に移り住んで10年。地蔵盆という行事を、親の立場になって子供とともに見つめてきた。それは、どこか懐かしく、少し不思議で、「つづける」ということの意味を静かに問いかけてくる時間だった。
形式は変わりながらも、町内の人々が交わす視線や声のなかに、小さな祈りの循環が生まれている。

■Vol.2はこちら

西井 出
Director / Copywriter

印刷会社・デザイン事務所など20業種以上の多様な業種・業態に携わる中でデジタル化に伴う栄枯盛衰と様々な価値観のパラダイムシフトを経験。今にとらわれない視点で世の中をポジティブに変革していくべく、多様な視点で物事に取り組み、地域から変えていくクリエイティブを目指す。

はじめて“地蔵盆”に出会った夏

「どこか呪術的で、少し怖くて、でも楽しそう」——幼い頃の印象は、現実の中で静かに更新された。

三重で生まれ、石川、大阪を経て京都へ。幼少期に読んだ『かがくのとも じぞうぼん』でしか知らなかった行事を、親として初めて体験した。地域の人々が一体となって動くその姿に、「文化が生きている」と感じた瞬間だった。けれども、私が本で目にしていた賑わいの多くはすでに形を変え、この10年のあいだにもその姿は確実に変わっていった。

静かに変わっていく、まちの夏の風景

「やめる勇気」も、続けるためのデザインのひとつ。

以前は老若男女が集まる“全員参加の福引”と、子ども専用の福引があった。しかし、前者は時間も労力もかかるため中止に。残ったのは子どもたちの笑顔を中心にした形だった。親が希望の景品を用意し、町内が費用を補助する。「無理なく続ける」方向への舵取りが始まった。伝統とは、変えないことではなく、“変えながらも残す意思”の中に宿る。

屋外から屋内へ——“まちの安全”をデザインする

祈りの場と遊びの場。その分離は、悲しみではなく知恵だった。

お地蔵さんの祠の前は狭く、読経の場としてのみ使われる。お導師様を迎え、念仏を唱える、一緒に唱えるのは主にお年寄りたちだ。子どもの遊びは少し離れた路上で行われていたが、近年の酷暑への対応と安全の両立が難しくなっていた。そこから生まれたのが、「龍谷大学町家キャンパス」での屋内開催。
学生ボランティアの力も借り、安全と快適さを確保しながら“続ける方法”を見出した。それは文化の簡略化ではなく、「安全をデザインする」という再生的な選択だった。

※龍谷大学深草町家キャンパス
龍谷大学深草町家キャンパスは、龍谷大学が、町家の利活用を通じて、地域社会と連携を図りながら、教育・研究上の成果や学内資源を地域に還元し、地域に開かれた大学として、地域社会と共に発展することを目的とした施設。
https://www.ryukoku.ac.jp/fukakusamachiya/

世代と空間の分断——失われた“まじわり”

“交流”という言葉の中にあった祈りが、いまは少し遠くにある。

10年前から、すでにお年寄りが遊び場に顔を出すことは少なかった。地蔵前での数珠まわしが、世代を結ぶ唯一の場だった。コロナ禍を機に、その数珠まわしは消え、残っているのは念仏を唱える時間だけ。それでも、卒業を迎える小学6年生が挨拶をする瞬間には、町の時間が静かに交わる。新しく移り住んだ家族同士の出会いも生まれる。小さな「顔の見える関係」が、地域のセーフティネットとして今も機能している。

失われる祈り、残るしるし

名前の書き込まれた地蔵の前掛けを見るたびに思う。この町には、こんなにもたくさんの願いがある。

数珠まわしがなくなっても、子どもが生まれると名前を書いた前掛けをお地蔵さんにかける習慣は続いている。それは家族の祈りをかたちにする行為。宗教行事としての色は薄れても、“祈りの意志”はしっかりと残っている。

一方で、子どもの少ない町では地蔵盆が途絶える例もある。けれど、コロナ禍を経て再び再開する地域もある。つまり、いまの地蔵盆は「一律の行事」ではなく、それぞれの町が自分たちのかたちを選び取る時代に入っているのだ。昔は、2日間夜通しで行われていたのが当たり前だったとも聞く。

リジェネレーションとしての地蔵盆

文化を“残す”から、“つくりなおす”へ。

地蔵盆の変化を見つめながら、私は「サステナビリティ」という言葉では足りないと感じている。変化に合わせてかたちを変え、また芽吹く——それは「リジェネレーション(再生)」と呼ぶほうがしっくりくる。

前掛けを縫う手、学生が設営を手伝う姿、子どもたちの笑い声。それらが混ざり合い、祈りと生活のあいだにある小さな循環をつくっている。

お経の声でも、提灯の数でもない。人と人が関係を編み直す時間こそが、地蔵盆の本質なのかもしれない。

「まもる祈りを、つづけるカタチに。」

祈りとは、過去を繰り返すことではなく、未来に向けて、もう一度つくりなおすこと。京都の夏の片隅で行われるこの小さな行事が、私たちにそのことを静かに教えてくれている。

■Vol.2はこちら