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2026/08/18

雑草を花に変えるもの

ブログ

Q.雑草は花になるか?
A.なる。地平と地平がつながれば。

エンビジョン クリエイティブプランナーの佐藤が、最近思うことをつらつらと書いてみました。
変わった書き出しで執筆し始めたはいいものの、記事の着地は全く見えていません。……少しお付き合いくださいませ。

大丈夫、これはブランディングの話です。

ぶち抜かれた雑草

少し自分の話から始めます。

私は今、親族から受け継いだ家に住んでいます。
エンビジョンにも通いやすく、毎日快適。小さい頃から里帰りの度に通っていた、馴染み深いお家です。
我が家となった今も、特にリノベーションはせず、家財道具もほぼそのまま引き継いだので、住み始めてまもない状況ではありますが、かなり年季が入っています。家を支える柱には、小さい頃に測った身長の線があったりと、思い入れいっぱいのお家です。

そんなこの家にも、悩みの種がありました。
前の家主から引き継いだ花壇です。

花壇にはバラとネギが咲いていて——どういう成り行きでその組み合わせになったのか全くわかりません。なんでバラとネギ?——園芸用品も一揃い置いてありました。

庭いじりに苦手意識があった私は、大層なことはできませんでしたが、引き継いだ手前、水やりと栄養剤の散布くらいは面倒をみてやることにしました。

しかし入居して数日後、その花壇に生えてきたのです。雑草が。

気づいた時にプチプチ抜きつつも、根っこが球根状になっているせいか、一向に殲滅できない雑草。
覚悟を決めた私はある休日、スコップを手に土を掘り返して、忌々しい雑草を根こそぎ取り除くことにしました。
球根状の根っこは、花壇の中で思いのほか勢力を拡大しており、掘っても掘っても次から次へと出てくる始末。私はバラとネギを守りたい一心で、土まみれになりながら格闘しました。

四苦八苦しながら数時間後。
努力の甲斐あってか、雑草だらけだった花壇は、立派なバラとネギのみが美しく立ち並ぶ花壇になりました。達成感に浸りながら、ふふふと花壇を眺めていたあの瞬間の私は、間違いなく「良い仕事をしたぜ!」と思っていたのです。

悩みの種もなくなり、花壇のことなど忘れて元気に生活をしていたところ、前の家主と交流のあった別の親族が我が家にやってきました。
あらかた近況などを話し終えた後、受け継ぐ前からほぼ変わりのない家を案内していると、その親族がふと花壇に目をやり、一言言いました。

「まだフヨウカタバミ咲いてないんだね」

フヨウカタバミ……?
知らない言葉でした。咲くということは何かの植物?

スマホを取り出し画像を検索してみて、私はひっくり返りました。
フヨウカタバミ。
私が悪戦苦闘したあの雑草は、白い花をつける優雅な園芸品種だったのです。
ハート型の葉、真っ白な花弁。検索結果に並ぶ写真は、その、見覚えのある球根は、どこからどう見ても、私が「良い仕事してる!」と爽やかにぶち抜き続けた、あの雑草にあった特徴そのものでした。

親族に恐る恐るその植物について尋ねてみると、どうやら家を受け継ぐ前、前の家主と一緒にその花壇に植えていたらしく、開花を心待ちにしていたとのこと。何も知らない私は、文字通り根こそぎ思い出の花を駆除した大罪人であることが判明しました。

だって……知らんかったし……。
私には、雑草と優雅な園芸品種の区別など、芽吹いた頃には見分けがつかなかったのです。

意味の総量

私の目にはただの緑の雑草にしか見えなかったあの雑草も、親族からすると思い入れ深い花になる。
この違いはなんでしょう。

それは、当人にとって縁のある意味を持っているか、否かです。
厄介なのはこの「縁のある意味」は、外から見ただけでは絶対にわからないという点です。

私はそれなりに花壇を眺め、向き合っていたつもりでした。
しかし、あの雑草の、雑草以上の意味には最後までたどり着けませんでした。
当人の視点だけではそれ以外の意味の総量は測れないのです。
知っていたか、知らなかったか、それだけのことです。

例えば、「初雪の雪解け水を纏った葉」と「濡れた葉」では、物体が持つ意味の総量が異なります。

「初雪の雪解け水を纏った葉」を認識するためには、

  • 初雪が降ったこと
  • その雪が葉に積もったこと
  • 積もった雪が溶けたこと

この3つの事象を知らないと、その意味の総量を適切に受け取ることができません。
先の悲劇は、私が「思い出のフヨウカタバミ」を「ただの雑草」としてしか認識できなかったために起きたのです。

似たようなことは、生活のあちこちに転がっています。
例えば、私にとっては「小さい頃から身長を記録してもらい、そのたびに一喜一憂していた、私の成長そのものを表す存在」である身長が刻まれた家の柱も、誰かにとっては、赤の他人の名前が書かれた傷だらけの柱です。
物好きな方でなければ、さっさとカンナで削り取りたくなるでしょう。

モノそのものの物理的な情報量は変わらないのに、そこに宿る意味の総量は見る人によってまるで違う。
同じ物体が、ゴミにも家宝にもなるというわけです。

哲学者エトムント・フッサールは、私たちが何かを知覚するとき、その知覚は真っ白な状態で起きているのではなく、過去の経験の積み重ねの上に立ち上がってくるものだと考えました。

目の前の草を「雑草」と見るか「思い出のフヨウカタバミ」と見るかは、その人がこれまで積み重ねてきた経験がどう沈殿しているかによって決まります。
過去の経験は消えてなくなるのではなく、知覚の奥に降り積もり、今ここで何かを見るときの構えとして働き続ける。
私とあの親族とでは、同じ草を見ながら、まったく違う地平の上に立っていたわけです。

そして意味の総量は、過去からの蓄積だけで決まるものでもありません。「意味づける」という言葉があるように、私たちは未来に向かって意味を与えることもできます。ある物事に対して、自分なりの理由や価値、別の事物との関係性を与えて解釈する、という行為です。

やっとブランディングの話に着地ができそうです。

関心の獲得

意味の総量は、行動を変えます。
もし私があの花壇の経緯を認識していたら、決して、誓って、(ほんまに)フヨウカタバミを引っこ抜くという行動はとりませんでした。

行動変容に寄与する意味の総量。
それは「関心」と呼べるかもしれません。

関心はお金をうむ。
アテンション・エコノミーとはよく言ったものです。
経済学者ハーバート・サイモンは、1971年の論考の中で「情報の豊かさは、注意(アテンション)の貧しさを生む」という趣旨のことを述べています。
情報や選択肢があふれる社会では、希少なのはもはやモノや情報ではなく、人々の関心そのものになる。だからこそ現代の経済は、関心をどう獲得するかという競争の様相を呈しています。

一枚の紙切れが一万円として機能するのも、突き詰めれば「そう意味づけているから」に他なりません。お金という、一見もっとも即物的に見えるものでさえ、その正体は共有された意味の総量なのです。

だとすれば、関心の獲得を競う現代の経済活動は、つまるところ「誰の意味づけを、より多くの人と分かち合えるかの競争」だと言い換えられるのかもしれません。

意味が変われば、行動が変わる

ミラノ工科大学のロベルト・ベルガンティ教授は、デザインの本質を「モノの機能向上」ではなく「モノに新しい意味を与えること」と定義しました。(=Design Driven Innovation)
私たちが扱うブランディングという営みも、突き詰めれば「意味づけ」の営みです。

私はブランディングとは「固有のらしさ、すなわちイメージを積み重ねていくこと」だと捉えています。
志を胸に未来を見据え、自らのらしさを一つひとつ積み重ねていく活動。
ブランディングとは、意味を紐解き、並べ、また意図を持って編み直す行為なのだと思います。

例えば、同じ「創業50年の町工場」であっても、受け取る意味が変わればその姿を変えます。
その創業の歴史や、50年の間にどんな失敗を重ね、どんな社員がどんな執念で技術を磨いてきたのかを丁寧に掘り起こし、語り直した瞬間、その工場は「創業50年の町工場」という事実以上のものとして知られるようになります。

工場の設備も社員の数も、何一つ変わっていないのにも関わらず。
変わったのは受け手に届く意味の総量だけ。

同じ植物でも、意味の総量を紐解くことで、片方はただの雑草に、片方は誰かが心待ちにする花となるのです。

受け取り方に差はあれど、意味の変容は立場を問わず起こります。
社外の人がその会社を見る目が変わることもあれば、そこで働く社員自身が、自分たちの仕事を捉え直すこともある。

意味が変われば、関心が変わる。
関心が変われば、行動が変わる。

だからこそ、ブランディングに携わる者として、この「意味づける」という行為がもつ暴力性を私たちは自覚しなくてはなりません。それは人の行動を、未来を、そして時には過去の受け取り方までも変えうる力を持っているからです。
私があの草を「雑草」だと認識したことで、その草の未来は断たれてしまいました。それを意図的に行うことの恐ろしさたるや。

なぜならば、意味づけは時に不可逆です。
しかし同時に、意味づけることの尊さもまた、この記事で伝えたいことの一つです。

もし私が、その花壇の物語について知る機会があったなら(あるいは知ろうとしていたなら)、その意味の総量は、私にフヨウカタバミを慈しむ時間を与えてくれたのかもしれません。

仕事でもよく似た場面によく出会います。
長年当たり前のようにやってきたサービス開発や、なんとなく続けてきた挨拶の習慣。中にいる人にとっては空気のようなもので、わざわざ語るまでもないと思われがちなそれらが、実は外から見ると、他にはない「フヨウカタバミ」だったりします。

当事者が意味の総量に気づかず、うっかり引っこ抜いてしまう。
ブランディングの仕事の半分くらいは、こうして見過ごされている意味を掘り起こし、「実は雑草じゃなくて花かもしれません」と対話をすることだと言ってもいいかもしれません。

雑草を花に変えるもの

あの親族が、ふと「まだフヨウカタバミ咲いてないんだね」と語ってくれなければ、私はきっと今でも、あの花壇に咲いていたはずの白い花の存在すら知らないままでした。

物体が持つ意味のほとんどは知られないままでしょう。
誰かが語り、誰かが知って初めて、地平と地平がつながり、ただの草が花になる。
なんだか奇跡みたいなことですね。

意味を誰かと共有し合うこと。
それもまた、コミュニケーションと呼べるのではないでしょうか。

どれだけ丁寧に意味を重ねても、それが語られなければ、受け手の地平には届きません。
企業や商品に眠っている物語は、語られて初めて、誰かにとっての「思い出のフヨウカタバミ」になる可能性を持ちます。

語ろうとすること。そして、知ろうとすること。
その往復でしか雑草は花になりません。

Q.雑草は花になるか?
A.なる。地平と地平がつながれば。

でも、最後に紹介しなければならない言葉があります。
文芸評論家の小林秀雄の言葉です。

“美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。”

花の実在が先にあって、その花に心打たれるから、私たちは花の美しさを感じることができるのです。

しかと胸に刻み、これからもこの仕事に向き合いたいと思います。

ライター紹介

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佐藤裕紀乃
エンビジョン クリエイティブプランナー

大阪府出身。コト・モノ・情報を通じたデザインによる課題解決を得意とする。社会を多角的に分析し、新しい発想で課題にアプローチすることで「未来を良くしたいという前向きな想いが共鳴しあう世界」を実現したいと考えている。4歳から現在まで剣道を習い続けている。趣味はラジオ収録で、いつでもどこでもラジオMC風の進行をこなす特技を持つ。