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2026/09/04

金の話をしない日本人|いのうえの思考 #08

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こんにちは、僕は金の話しかしない人が苦手です。
胡散臭い営業マンとか、中身がないのに儲け話や「いくら稼いだ」みたいな話ばかりする人。ああいうのは、正直うんざりしてしまう。あまり興味が持てないんですよね。

……と、いきなり感じの悪い書き出しですみません(笑)。でも今日書きたいのは、実はその逆側の話でもあるんです。というのも僕、お金の話を“しなさすぎる”人も、同じくらい気になっているので。

最後の最後で、お金が合わない

僕はこれまでビジネスの現場で、こんな経験を何度もしてきました。

商談が始まって、いい雰囲気で話が進んでいく。課題の話、提案の話、盛り上がる。ところが、お金の話——予算はいくらなのか、この投資にどれくらい出せるのか——を、最後の最後まで、誰も切り出さない。そして一番最後にようやく金額を出したら、「あ、そんなには出せないです」。……そこまでの時間、全部なんだったんだ、と。

こういう“最後にお金で合わずに終わる商談”を、僕は数え切れないほど見てきました。(ついでに言うと、そもそもお金を自分で決められる立場の人が、その場に同席していない、ということもよくある。それはそれで別の問題なんですが。)

正直に言うと、けっこう面倒くさいんです。僕は、お金の話は早めに、正面から出して、建設的に前へ進めたいタイプなので。予算が見えていれば、その範囲でどうベストを尽くすかを、一緒に考えられる。なのに、なぜかその一番大事な情報を、みんな最後まで伏せている。

で、この手の話をすると、たいてい「まあ、日本人はお金の話が苦手やからね」で終わるんですよ。国民性、気質の問題、と。

でも僕、ここで立ち止まりたいんです。それ、本当にただの“気質”なんでしょうか。

気質で片づけると、何も変わらない。だから今日は「日本人とお金」を、ちょっと歴史から掘ってみたいと思います。調べてみたら、これがめちゃくちゃ面白かったので。

「お金=卑しい」は、どこから来たのか

まず、「お金の話ははしたない」という、あの空気。どこから来ているのか。

よく言われるのが、江戸時代の武士の価値観です。「武士は食わねど高楊枝」ということわざ、ありますよね。武士は貧しくて食えなくても、さも食べたかのように楊枝をくわえてみせる——やせ我慢してでも体面を保つ、という美学です。武士は当時の“公務員”みたいな存在で、私利私欲に走らず、名誉を重んじるのが正しいとされた。だから、お金儲けの話をすること自体が、どこか卑しい、という空気があったんですね。

その背景には、儒教(とくに朱子学)の影響もあります。「義」=正しさと、「利」=もうけ、を対立させて、「富と道徳は両立しない」ととらえる見方。これが江戸の武士のあいだに広まっていた。

そして現代。日本の学校には、いまも「お金」を正面から扱う教科は、ほとんどありません(2022年から高校の家庭科で金融教育が入りましたが、まだ始まったばかりです)。稼ぎ方も、使い方も、値段のつけ方も、しっかり習わないまま大人になる。「がめついと思われたくない」「お金の話は難しい」と、なんとなく避ける。——さっきの商談の“最後まで金額を出さない”も、たぶんこの延長線上にあります。

ところで、「士農工商」って習いましたよね

ここで、面白い話をひとつ。

「日本人がお金の話を避けるのは、商人が身分のいちばん下だった士農工商の名残だ」——なんて説明、聞いたことありませんか。武士がいちばん上で、商人がいちばん下。だからお金を扱う商売が見下された、と。

ところがですね。この“士農工商”、いまや教科書から消えているんです。

僕も調べて驚いたんですが、近年の歴史研究では、士農工商は身分の上下を表す序列ではなかったとされていて、2000年前後から教科書でも使われなくなっている。もともとこの言葉は古代中国に由来していて、「士も農も工も商も」=“あらゆる職業の人々”、つまり“みんな”を指す言葉だったんです。順位じゃなかった。

これ、けっこう衝撃じゃないですか。「商人は最下層だった」という、僕らがなんとなく信じていた前提そのものが、実は怪しい。

……とはいえ、ここは慎重にいきたい。「序列じゃなかった=お金への蔑視もなかった」とまでは言えないんです。さっきの武士の清貧の美学や、儒教の義利二元論は、士農工商とは別のルートで、たしかに“お金は卑しい”という空気を残しました。だから話を混ぜてはいけない。でも少なくとも、「制度で商人が最下層だったから」という一番わかりやすい説明は、そのまま鵜呑みにはできない、ということです。

むしろ、日本には「お金と徳」を両立させた系譜がある

そして、ここからが今日いちばん伝えたいことです。

「日本人はお金の話が苦手」と言うけれど、避けることは、日本の“本流”ではなかった。むしろ日本には、お金と道徳を堂々と両立させた、誇っていい思想の系譜があるんです。

1人目。石田梅岩(1685〜1744)。江戸中期に「石門心学」という庶民のための道徳哲学を立ち上げた人です。彼は主著『都鄙問答』(1739年)で、商人の利益を真正面から肯定しました。「士農工商は身分の上下ではなく、職分の違いにすぎない」「商売は世の中に必要な“交換の仲介業”であり、その利益は正当な報酬だ」と。彼の言葉に、こんな一節があります。

実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり

本物の商人は、相手(買い手)も立ち、自分(売り手)も立つことを考える——。これ、のちの「三方よし」をもう先取りしてるんですよね。江戸のど真ん中で、お金儲けは卑しくない、まっとうな仕事だ、とはっきり言い切った人がいた。

2人目。渋沢栄一(1840〜1931)。「日本資本主義の父」で、いまの一万円札の人です。彼の有名な『論語と算盤』は、まさに「道徳経済合一説」=義利合一を説いた本でした。渋沢はこう考えた。朱子学が「富と道徳は両立しない」と広めてしまったけれど、本来そんなことはない。道徳(論語)と経済(算盤)は、両輪で回すものだ、と。「公益第一、私利第二」。世のためになることを第一に置けば、利益はその結果としてついてくる。お金を否定するのでも、崇めるのでもなく、正しい順番で扱え、という話です。

3人目、というか有名なやつ。近江商人の「三方よし」。売り手よし、買い手よし、世間よし。……なんですが、ここでもう一つ面白い小ネタを。この「三方よし」という言葉、実は昭和の造語なんです。1988年ごろ、研究者の小倉榮一郎さんが近江商人の精神を要約して使ったのが広まったもの。じゃあ思想自体も新しいのかというと、そうじゃない。原典は1754年、近江商人・中村治兵衛が子孫に残した書置にさかのぼります。言葉は新しいけど、精神は江戸からずっとあった、というわけです。

こうして並べてみると、どうでしょう。梅岩、渋沢、近江商人——日本には、お金と徳をセットで語る知恵が、ちゃんと分厚くあった。ついでに言えば、稲盛和夫さんの「値決めは経営」も、僕はこの系譜の現代版だと思っています。値段を決めるのは、経営者がやるべき一番大事な仕事のひとつ。安売りに逃げず、自分たちの価値と正面から向き合え、という教えです。

でも、逆の病もある

……と、ここまで「日本人はもっとお金の話をしよう」みたいな流れで書いてきました。でも、誤解してほしくないので、逆側のこともはっきり言っておきます。

冒頭に戻るんですが、僕は「金の話しかしない人」が、本当に苦手なんです。で、あれは単なる個人の好き嫌いじゃなくて、資本主義が行き着いた先の、ちょっと病んだ価値観だと思っていて。

「お金を持っている=エラい」。稼いだ額が、そのまま人間の格みたいに扱われる。SNSを開けば、年収がいくら、資産がいくら、フォロワーが何万——数字の大きさで人を値踏みする空気が、どんどん濃くなっている気がします。何を生み出したのか、誰を幸せにしたのかは、すっ飛ばしたまま。

これ、さっきの梅岩や渋沢とは、真逆なんですよね。彼らが立派だったのは、「お金は大事だ」と認めたうえで、それを徳や“世間よし”(=価値)とセットで語ったところ。お金“も”語ったんです。でも今、横行しているのは、お金“だけ”を語って、価値を置き去りにする世界観です。避けるのも問題だけど、崇めるのも同じくらい問題。いや、お金を神様にしてしまうこっちのほうが、僕はむしろタチが悪いとすら思っています。

お金は、道具だ

ここまで来て、僕の言いたいことは、たぶんもう伝わっていると思います。

お金は、道具です。それ以上でも、それ以下でもない。目的でもないし、汚れ物でもない。価値を前に進めるための、ただの道具。

だから、避けるのも違うし、崇めるのも違う。道具なんだから、正面から、早めに、テーブルの上に置けばいい。僕が商談でお金の話を早く出したいのも、守銭奴だからじゃなくて(笑)、それが相手の価値を尊重することだと思っているからなんです。予算という制約が見えて初めて、その中で最高のものを一緒に作れる。逆に言うと、お金の話を避けるのは、実は“価値の話”から逃げているのと同じなんですよね。だって、値段って、価値そのものを映す鏡だから。

語れない人と、語りすぎる人

最初に戻ります。

僕が「金の話しかしない人が苦手」なのは、お金が嫌いだからじゃありません。むしろ逆です。お金しか語らない人は、その向こうにある“価値”を語れていないから、うんざりするんです。数字と儲けだけで、中身がない。

そして、お金の話を最後まで避ける人も、実は同じなんです。価値そのものと、正面から向き合えていない。語りすぎる人と、語らない人。一見正反対だけど、どちらも“価値”というものをちゃんと扱えていない、という点で、同じ穴のむじなだと思うんです。

だから僕は、その真ん中に立ちたい。お金を、道具として、まっすぐ扱う。避けず、崇めず、価値の話としてテーブルに乗せる。梅岩や渋沢がやっていたのは、たぶんそういうことでした。

エンビジョンのパーパスは「未来のためにできることをやる。」です。その“できること”を前に進めるためにも、お金はちゃんと必要な道具です。だからこれからも僕は、気持ちよく、お金の話をしていきたいと思っています。もちろん、中身の話とセットで。

ライター紹介

井上大輔
エンビジョン代表取締役

2017年、前身となるクリエイティブプロダクションの代表取締役就任、翌年MBOし独立。クリエイティブが担う領域でポジティブな未来を実現させるべくenvisionのパーパス、ナラティブをリードする。envisionと同様のパーパスを掲げる企業・個人が増えることで、社会が、日本が前進すると考えている。